霊想「憐れみに生きる」

ルカ18・9 〜14

ルカの福音書に「ファリサイ派の人と徴税人」のたとえが記されています。ファリサイ派の人は、神殿、つまり神の御前で「わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています」と胸を張りました。それはちょうど、子どもたちのために、わたしはこうしましたし、ああもしました、一所懸命しました、精一杯いたしました、と数え上げたわたしのように思えました。
 自分が徴税人のようなあからさまなことはありません。しかし、パウロは言います。「各自で、自分の行いを吟味してみなさい。そうすれば、自分に対してだけは誇れるとしても、他人には誇ることができないでしょう」(ガラテヤ6・4)。自分は精一杯がんばっているから、一所懸命にやっているから、それで「できた」「十分だ」というのは、自分の秤だというのでしょう。
 わたしたちは、どこかに到達点があるかのように錯覚しているかも知れません。けれども、パウロは「わたしは、既にそれを得たと言うわけではなく…何とかしてとらえようと努めているのです。自分がキリスト・イエスに捕らえられているからです。…なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ…」(フィリピ3・12、13)。それは、姿勢のようなものだと言います。 主イエスは、一番大切なことは、「神さま、わたしを憐れんでください」、という祈りだと教えられました。十字架の上の主イエスに憐れみを請うた犯罪人が、即座にパラダイスに招かれたように。  
 わたしたちが、憐れみの故に生きることができるのだということを常に覚えるとき、自分ができても、できなくても生きていて良いのだと平安のなかで生ることができます。自分が愛されていることに安堵ができます。憐れみは、わたしたちに「愛を借りていなさい、そこに生きなさい」と言うのです。(貴志川教会 杉本直子)